20100508

二十八話

地図を書いてくれた人は
「この先へ行っては駄目だよ。もうじき満潮だから」
そう付け加えると、海岸線をさらに太くなぞった。
手の甲には青い三角州がうかび。



暮れすすむ海辺で椅子が深いことしかわからない会社をさがす

二十七話

人生には私の読む本を、うしろから覗き込む顔があるのだ。
そいつはいつもひと足先に読み終え、次のページにめくれるのを余白で待っている。
私はページの数だけ不本意なドアボーイの役目を果たさなければならない。

ある日突然何もかもいやになる、の「何もかも」の中には、たとえばそんなことだって入っている。




長袖をぶらぶらさせて落ちてくる真っ赤なあれはきみの思春期

二十六話

いい足音のする靴をみつけたので、どこかに出かけようと思う。
そう話しながら眠ってしまった晩に見るのは、どこまでもくだり続ける細い階段の夢だ。
階段の途中には自販機がある。何度も車にひき潰された、ちらしのように平たい缶が明かりに浮かび上がる窓。デザインの痕跡しかない缶の、何だかどれも見覚 えがある気がして立ち止まっている。

そんな走り書きのある紙切れが、古い本のページから額に落ちてきた。
私の字ではない。だが夢には、たしかに見た覚えがあった。




ベーカリーの日除けの影で半分があかるい顔の中の無表情

二十五話

話しかけると隙間を覗くような気分になる。
だが隙間などない。相手は犬なのだから。
垣根にひっかかっていた吸殻をしっぽが叩き落す。
犬よ、私は人間である。
私の帰り道に信号は二つしかない。
その二つにおまえは挟まれて、じっと聞き耳を立てている。
「そうか血の色だからなのか」
人間たちが、赤になるといっせいに止まる理由に
はたと思い至ったという顔で。
目があうと、向こうから気まずそうに逸らせた。



階段がむきだしなのは舌だから アパートの白く塗り直す屋根

二十四話

乗り物といっても、ぼくたちには大した数はない。
エレベーターを入れる? 入れても二十にも満たないだろう。
だったら行けるところまで徒歩で行くほうがいい。
乗り物に乗ると、目的地がぼくらを目がけてくる。
ぼくらは閉じ込められていて、それをよけることができない。正面からそれに激突する。
見つからないように距離を詰めるには、だから、乗り物はふさわしくないのだ。
本当は、徒歩もひとつの乗り物なのだけれど。



それが正しいバスと信じて座るなら窓の曇りに息をかさねて

二十三話

近所の家具屋に行くと、九十一段ベッドを売っていた。

なぜ九十一段なのか店員に訊ねたら、法律で定められている上限なのだそうだ。
「それ以上の高さになると、この国では誰も売ることができないんですよ」
そんな豆知識を披露しつつ、店員はまぶしそうにベッドを見上げた。
つられて私も見上げる。すると最上段から、子猿のような男が必死に手を振っているのが見えた。

店長なのだという。






三〇三号室はベッドのある頭蓋骨だと思ってください 消灯します

二十二話

みだらな父親の子として生まれた記念に、彼女たちは剃刀の詰まった靴を履いて夜の旅に出た。
ぬかるみを歩く気分がしたのは、べつに気のせいではなかった。
彼女たちが近づくと音でわかる。魚が跳ねるように聞こえたのだ。


横笛が頬にささってる雪だるまバス停にありぼくらは並ぶ

二十一話

最初は罠だったけれど、百年後の今はインターチェンジです。


おまえなんかおまえなんか 指輪ごと棄てられてまだ花嫁でいる

二十話

ずいぶんめくってしまったページは、残りがとても薄くて、
その薄さを透ける光さえ射してこないことに、ぼくらは顔を見合わせた。


きれいな勝手口だといって見せにくる こんな時間にバスから降りて

十九話

出口という文字を裏返すと、入口になった。
立ち去る前に、ぼくらはそれをドアに掛けておいた。


舌を出す「舌に返事を書いたの」とだらしなく冬の陽のさす墓地で

十八話

「ほんとに瓜二つだったわよ。ほくろの位置まで全部同じ」
Kは蟻の巣でもさがすように私の顔を眺め回した。

だから私は来てみたのだ。その男がいたという薄暗い川べりの店に。
「驚いた。ガラスに自分が映っているのかと思った」
三日後。私はKに“運命の対面”の一部始終を報告していた。
「まさかショーケースの中にいるとは予想しなかったよ」
「あら、人間だなんて一言も言ってないじゃない」

それは下半身と腕のないマネキン人形であった。
新製品の帽子を深めに被り、うつろな瞳が私を見返している。
「店主に訊いたんだ。この色男は一体どこで手に入れたんですかって」
初老の女主人は、あれは特注品なのよと誇らしげに答えた。
「若い頃の夫がモデルなの、ここが彼の店だった頃の話。いい出来でしょう? 夫はもっといい男だったけど。あいにくマネキン工場は潰れたわ。夫が亡くなる 少し前だった。腕の立つ職人が揃ってたんだけどねえ」

奇妙なことに、女主人は何度も私と目を合わせて話しながら、まるで驚く様子を見せなかったのだ。首をかしげるそぶりさえなかった。
私はどこかで見憶えのある顔どころか、単に冷やかしの客の一人として適当にあしらわれた。煙草のけむりをたっぷり浴びただけで帰ってきたのだ。
帰り際、ショーケースの中をもう一度覗き込んでみた。
マネキンの顔はたしかに鏡の中の私そのものだ。そして私は自分自身の顔に手を触れてみる。
私の方はどうなのだろう? ふいに胸が冷たくなる。私は、本当に私の顔なんだろうか。

「一杯食わされたのね」
意外なKの言葉に私は動揺した。
「きっとそのおばさん、あなたに惚れてるのよ。ひそかに盗み撮りした写真を集めてたんだけど、とうとう我慢ならなくて、あなたそっくりの人形を特注したっ てわけ」
「あることさえ知らなかった店だぜ? 初対面だよ」
「たしかに、あなたにとってはね」
Kはそう言って意味ありげに微笑んだ。
「でも、彼女にとってはそうじゃないのかもしれない」






帽子にも寿命があって帽子屋も日が経てば帽子の墓になる

十七話

教室には入口と出口がある。
出口から入った者は、入口から出て行くしかない。通り過ぎるとはそういうことだ。
私たちは通り過ぎる。入口から出ていく者と、私はすれ違う。かるく言葉を交わしたり、あるいは黙って肩をこすりつけるように、狭いところで譲り合って。
けれど授業中だけは違う。私たちはみな腰掛けており、どちらを目指しているのか見分けがつかないのだ。
あるいは、ずっとここにいていいのかもしれない。草むらに見失った打球のように。ずっと同じところを差す広場の時計のように。


強制終了後の地球 という章題を呟きたくなる夢をみていた

十六話

「お友達でしょう」と母は笑って聞き入れなかった。「待たせちゃ悪いわ」
でも何度も言うけどぼくに友達なんていないし、まして夜中の二時に訪ねてきたりはしない。
「パパがふざけてるんじゃないの? 出張なんて真っ赤な嘘でさ」

友達がいない。

だけどどうだろう。こんな遅い時間にわざわざぼくを訪ねてくれる人なら、もしかしてってことも。
「じゃあ着替えるから出てってよ」
必死で頼めば、友達になってくれるかもしれない。

そう思うと、階段に踏み出す右足は藤の花のようにゆらゆらふるえていた。



あなたには正装した子供に見えるサボテンが点々と門まで

十五話

袋小路は成長する。道路はやがて繋りあうために伸びる生き物だから。
それを適度に殺すのが私たちの仕事だったのです。


一軒家から細道が折れながらくだってる黒いワゴンに追われ

十四話

サンダルにもスリッパにも見えるものを履いて出かけよう。
帽子に見えるかつらをかぶり、水着に見える下着だけ身に着けて。
それでいて女にも男にも見えないきみは、ぼくの天国であり地獄なのだ。
ぼくはきみという番組のただ一人の視聴者。ほかに替える放送局がない。
だからきみはぼくに必要な情報すべてとして、姿で視界を覆いつくす。
きみはぼくを騙せない。きみが言えばすべて本当になるから。
ぼくの考えることはすべてきみの受け売りなのだ。ぼくには自分がない。ぼくはきみだ。


ふさわしい蛇が這うまでこの廊下はぼくらの道にならないみたい

十三話

あなたに渡したお金は、今夜のカレーの材料とたくさんの果物とビール、それに切らしてた無塩バターに換って冷蔵庫に納まった。お釣りはなかった。
あなたがくすねたのか、逆に足りない分を払ってくれたのかはわからない。
私にはそんな計算ができない。計算をするのはいつもあなたの役目だった。あなたが出してくれた答えに見合う計算式を、私はぼんやりと想像してみるだけだ。
その式にはいつも小さな鳥が一羽とまっていて、答えを鳥の声で鳴いている。
小鳥が飛び立ってしまわないかぎり、あなたの答えは、私の式にとどまり続けるだろう。
またそんな、予言のようなことを考えてしまう。玄関の灯を点けない夜は。


緑道に猫のすみつく町だけがふたりをいつもかるく無視した

十二話

玄関の内鍵が、変なタイミングでカチッと鳴ることがある。
誰も来ていないのに私はドアをあけにいく。
眠ってでもないかぎり、私は意味もなくそうしつづける。
すると扇風機の首振りにさえ一喜一憂する過敏さがたくわえられて、しかも朝である。
あかるくなると寝られる人の気持ちが、最近よくわかるんですよ。
電話でだれかにそう話して、返事がなかったのはいつのことだろう。
電話は切れていた。はじめから掛かっていなかったかもしれない。
私の客はよく柿食う客だ、とつぶやきながら林檎を剥く。
このタイミングで例のカチッがくるとしたら本物だな。
そんな私のナイフは、林檎に刺さっている時よく光るナイフ。


あの日見た護謨人形の一団の眼だまの剥げたおまえになりたい

十一話

家から廊下だけを抜き取る、名刺入れのように。
家が机になるような大きな人間のことを考える。
私は彼女とは(彼女だとすれば)セックスはできないだろう。
廊下のあった空洞に外の風が吹いている。
吹き込んできたビニール袋が、しばらく落ちていて、また吐き出されて消える。
私たちに恋愛感情は芽生えない。
彼女は(彼女だとすれば)私を小鳥のように見おろしているのだ。
小鳥とセックスをすることは、殺すことと同義である。
彼女の名刺の肩書きをぼくは盗み見たことがある。
彼女だとすれば、彼女は、女にしかできない職業の人だった。


蝶だった?蛾だった?そこが肝心なときだってあるそれが今なの

十話

もっとも狭いところにある教室を、授業に使う勇気がその先生にはある。
(届かないチャイムは、口移しでいちばん奥までつたえられる。)
私たちには迷惑な話でしかなかった。


絵の外にたどり着けたら埋めもどすみち 白の日は白の絵の具で

九話

左右サイズの違う足にそろえると、いらない靴がひと組余る。
私を鏡に映したもう一人がそれを履いて夜出かけるのです。
めざめた瞬間が、巻き戻されたテープの巻頭であるかのように、物音も立てず戻ってきているもう一人。
彼女のために捨てられずにいるのよ、とあなたは押入れの隙間をそっと覗かせてくれる。
けれどさしこむ部屋あかりは、身を乗り出すあなたの影で覆われていた。


滝になるほどの坂しかない朝の雨の住宅地の地図をかく

八話

公園に来ていることを思い出したのは、人がたくさん生まれる小説を読んでいたとき、何の前触れもなく主人公が死んだからだ。
びっくりした。驚きのあまり本を閉じてしまい、ここが家でも電車でもないと知ったのだ。
足元に鳩が集まっている。一瞬、本から死臭が漏れたのだと信じてしまいかけ、考え直すとページを開いた。主人公の死後も物語は続いている。
鳩は死体に集まる動物ではなかった。


司会者は人によく似た影を持つエノキクスノキ立ち枯れている

七話

見おろすと東京。蜘蛛が拍手のように湧き出る駅を、電話で実況中継する。私は誰と話しているのか。不本意な喝采の中へ急に放り出されたみたいに、取り囲ま れたタクシーの逡巡。こんな東京には見覚えがある。電話の声は意味のない言葉を耳にそそいでいた。「最短距離は月とロールスロイス。最短距離は月とロール スロイス」。
スイスロール? と私は思わず訊き返す。


マイクロチップマイクロチップと口ずさみつつ潜み売るポテトチップス

六話

大きすぎるおっぱいを(それが仕事だったから)貸し部屋に作り直した。
自分のおっぱいに住むことの出来る女はいない。
それはつねに貸し部屋であり、とても小さな男が住み着くものだ。
小さな男は無遠慮に音量を上げて音楽を聴き、行きずりの小さな娘を連れ込むだろう。
洗濯物のすきまから光を漏らす窓。
仕事とはいえ、そんな罪深い部屋を拵えた私は女に合わせる顔がなかった。
古い友達のように話はもうできない。
真夜中のコンビニですべての雑誌と、すべての原材料欄を読み終える頃窓のあかりが消える。
月を振り回す透明な鎖が今夜は見える。
私におっぱいがないのは、私が建物ではないからだ。そう気づいたのは何度目のダイエットコークを手に取ったときだろうか。
女は建物で、男は乗り物だ。
なぜそうなのかを説明することはできない。嘘だからではなく、説明すれば忽ち本当になるからだ。
私は監視カメラに映り続けた。優柔不断な泥棒のように。



わきの下を剃るようになった年齢を書く欄だけがある 履歴書

五話

雲は、それぞれの位置にあらかじめ描かれて貼られた一枚の空を匂わせる。何もその裏に隠してなどないし、隠しているとすればそれぞれの雲の輪郭分だけの 「空の不在」をである。
ということがあなたが一生で考えたことのすべてだった。


夜具は夜に返そうと思う明け方の二階から手の届くびわの実

四話

壊れたパソコンを使っているとあなたも壊れていく。それは床下に巣食っていた白蟻が、廊下に置いた段ボールの底を粉々に食い荒らす(分巣というらしい)事 実からも想像できる。
壊れは触れたものに受け継がれ、引越しする。なぜなら壊れはこの宇宙の本来の姿だから。里心が伝染した万物の、先祖がえり帰省ラッシュにあなたも例外でな く呑み込まれるのだ。ゼロのあるほうへ。


古い道にまた出てしまうところです 数字で母に呼ばれたように

三話

きみの顔を裏から見るのは初めてだった。それくらいぼくは薄く、光よりもどこへでも差せる体に生まれ変わる。超薄いぼくが神のFAXを受信して床にとぐろ を巻く。


いつまでも真っ赤な小学校なわけ無いじゃないポストじゃあるまいし

二話

「先生はどうして白骨に学生服なんです」「馬鹿者こうでなければ今日び客が取れんのじゃ」


百人いれば百人すべて同じ顔の栄太郎君を葱坊主と呼ぶ

一話

頭の中に頭痛があった。あるかぎりは割れない頭だと思った。さて、風船は?


舌で這う首と電車をつので牽くかぶとむしとが同着だった